【学生生活振り返る〜海外インターン〜】
こんにちは!
振り返りをしようとしていたら、社会人生活に突入してしまい、バタバタしてたら1ヶ月。。
ゆるゆるな更新ですいません。振り返ります笑
前回のブログでは、自分の人生観や学生生活の過ごし方を変えるきっかけとなった“フィリピンでの海外研修”について書きました。
いろんな人の多様な価値観に触れ、フィリピンの貧困問題について考える機会をもらい、心揺さぶられた海外研修。
帰国してからは、自分が本当にやってみたいことは何なのかを探るために、たくさんのことに挑戦してみました。
その中でも特に大きな経験となったのが、フィリピンのNGOでのインターン活動でした。
「次はもっと長くフィリピンに滞在したい!」
「フィリピンの生活を体感してみたい!」
「現地のNGOについて知りたい!」
「自分なりの貢献のしかた、アイデアを模索したい」
そんな思いを胸に、必死でインターネットで検索しまくり、やっと見つけた「アジアNGOリーダー塾」というプログラム(今はプログラム名を「アジア社会起業家育成塾」に改名しています。
アジア社会起業家育成塾 | 活動紹介 | 特定非営利活動法人アジア・コミュニティ・センター21
)。
アジアコミュニティーセンター21(以下ACC21)というNGOが主催しているこのプログラムは、至れり尽くせりのとても素敵な内容でした!
あまり詳細を話してしまうときりがないので、概要をざっくりと。
3部構成になっているこのプログラム。
第1部では、“座学”。毎月2回ほど様々な分野で活躍されているゲストスピーカーを招いて、アジア諸国が抱えている社会課題について考えていきます。
事前に出された課題図書に対するレポートを発表し合い、議論していく、というものだったのですが…
もともと「社会起業家(社会の課題を事業によって解決する人)」を育成するためのこのプログラム。塾生5名のうち3名は学生だったというもの、自分以外の2人は留学生だったり高学歴だったり国連ボランティア参加者だったり…。
たった9日間フィリピンに行って「何かしたい!」という思いだけで参加を決めてしまった僕にとっては、かなりアウェーな空気でした。
難しい内容の議論多く、ちんぷんかんぷんなワードばかりが飛び交う場は、正直キツかったし悔しかったです。それでも何とか食らいつくように講義に参加し、迎えた第2部の“実践”。フィリピンの首都マニラにあるNGOで、インターンとして40日間活動のお手伝いをさせていただくことになりました。
僕がお世話になった団体は、KPACIOというフィリピンのNGOでした。
そこのリーダーについていき、マニラの貧困地区、ナボタスという漁村で家計調査をし、そこに住む人たちの収入源や支出先についてのデータをまとめる、ということをしてきました。
質問の項目も一緒に考えさせてもらい、英語が苦手な僕でもスムーズに記録できるよう書き込み型にしたり、本人に数値だけ書いてもらってあとから事情を聞いてメモするという形にしてみたり…改善策も何度か打ちました。
ちなみにナボタスはこんなところ。
普段はリーダーのアパートの一室を借りていたのですが、ここでも実際何日か寝泊まりをしていました。
ゴミはそこら中に落ちているし、液体も垂れ流し。においと家の造りの危なっかしさが最初かなり気になりました。
ここでKPACIOは防災教育や環境教育を行ったり、若者の進学に向けての奨学金の支援をしたりしています。支援をする代わりに奨学生には活動を手伝ってもらい、コミュニティーをまとめるリーダー的存在に立たせることで、現地住民を巻き込んだコミュニティーづくりに取り組んでいます。
みんなで大掃除の日。
KPACIOから支援を受けている学生たちに、インタビューの時には通訳を手伝ってもらいました。
フィリピンでは英語を話せる人が多くいる印象ですが、十分な教育を受けることができなかったここの住人たちの多くは、英語が話せません。現地の言葉に直して質問してもらい、英語に直して返答を伝えてもらわなければなりませんでした。また、日本でいう中学卒くらいの学歴の人たちが多く、小学校以来学校には行っていないという人もおり、できることが限られている彼らの収入はかなり低いということがわかりました。
英語も苦手だったし、コミュニケーションをとるのにもかなり苦労しましたが、ナボタスに住む人たちの生活について知ることができ、同時に教育を受けることの重要性も感じることができました。
(当時の様子を弱々しいWi-Fi環境で少しだけブログに書いているので、こちらもぜひ。→
NAVOTASでの活動 | Asian NGO leader program
)
…うん。
知ることはできた。
でも、当時の自分にそれ以上そこでできることは見当たりませんでした。
貧乏だからって、決して不幸というわけではなく、足りないものは余った家庭から共有してもらい、子どもたちは近隣のお母さんたちに見守られながら元気に走り回り(衛生面は改善の余地ありでしたが)…
笑顔が絶えない素敵な“コミュニティー”でした。
そんな場所で活動しているうちに、少しずつアンテナが“日本”に向き始めた自分がいました。
「東京にはこんなに住民同士が結束したコミュニティーがなかなかないな…」
「親や先生だけじゃなくて、地域の人たちが子どもたちを見守ってあげられたら安心で安全なのに…」
「マンションの住民同士とか、もっと繋がれないのかな?」
どんなに貧しくとも笑顔を絶やさない子どもたちと遊びながら、そんなことを悶々と考えていました。
「ここ(フィリピン)の経済的貧困もどうにかしたい。でも学生時代に継続的に活動できるのは日本だし、そもそも日本のこと全然分かってないな…」
結局、フィリピンから帰国してからは日本のNPOでインターンをしようと決めました。
ただ知る、インプットするだけではなく、少しずつでも自ら何か発信したり与えたりできるアウトプットの機会を手にし、
地に足つけて動きたいという思いで、「放課後NPOアフタースクール」でのインターンを大学3年生の6月に始めました。
また、更に同年12月に「NPO法人カタリバ」でのボランティアにも携わることになります。その間にも離島に行ったりまた海外行ったり…忙しない1年だ…笑
ACC21とはその後もお世話になっており、4年の夏にはイベント運営にも関わらせていただきました。皆様には本当に感謝しています。
今後どうやって日本に、フィリピンに、あるいは世界に還元していけるのか…
今の自分は未熟すぎてイメージができませんが、このご恩をまずは自分の周りにいる人たちに送っていこうかと思っています。
次回は大学3年生の1年間を振り返ろうかなあと思います。
後半2年が異常に濃いものだったので、分けて書くことになるかも…笑
またまた長い文章になってしまいましたが、最後まで読んでくださりありがとうございます!
ではでは!
【学生生活振り返る〜フィリピンとの出会い〜】
はい、【学生生活振り返る】第2弾です!
前回は大学入学以前の自分について書いていましたが、 今回は僕の学生生活や価値観がまるっと変わるきっかけとなった、
フィリピンでの海外研修
について書いていきたいと思います。
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【フィリピンに行くまでの自分】
大学生活は、学科の授業やアルバイト、サークルなど新しい環境に満ち溢れていて、高校生活とはまた違った楽しさがあった。 夏休みはサークル合宿、ときどき奮発して美味しいものを食べに行き、春休みは貯めたお金で友達と初めての海外旅行でグアムに行ったのも良い思い出だ。
でも、グアムでの旅行で少しモヤモヤしたことがあった。
英語が話せない…
というかそもそも、
英語を試す機会がほとんど無い…
場所がグアムということもあり、現地には日本語を話せるガイドがたくさんいたし、英語が必要になったのはホテルでの手続きの時か飲食店で注文する時くらいだった。
(そこでも「This one」とさえ言っておけば済んでしまう。)
もちろん観光が大きな目的のひとつだったが、自分の中で「異文化交流をしてみたい」というのは自分が国際関係に(なんとなく)興味があった理由でもあったし、せっかくの機会に自分の英語力を試してみたかった。だから、次の海外は何かしらのプログラムに参加して英語を話す機会を得ようと思っていた。
【海外研修との出会い】
そこで2年の夏休みに私が出会った海外研修が、 東洋大学と一般社団法人GiFTが連携して行っている
東洋大学×GiFT 『Diversity Voyage』
であった。
フィリピンコースとマレーシアコースがある中で、フィリピンコースを選んだ。
内容は、フィリピンのセブ島にあるスラム街にて、日本人の社会起業家の方が0(ゼロ)から進めているプロジェクトに参画し、東洋大学生とフィリピン人でチームを組んで自分たちのアイデアを生み出し、提案しようというものだった。
具体的に言うとこのプロジェクトは、 教育を受けることのできない貧困層の子どもたちや、家庭の様々な事情で路上生活を強いられている子どもたち(通称“ストリートチルドレン”)でも通うことができる、教育施設をつくろうというもの。
「その施設ではどんな教育が必要とされているのか。」
「何があれば子どもたちの成長の手助けができるのか。」
実際に子どもたちへインタビューをしたり、スピーカーから話を聞いたりして、課題と解決策を考えるというのが、現地でのテーマだった。
なぜフィリピンコースを選んだのか。それは、
・近くて安いから
・アジア経済のゼミ(英語で行うゼミ。ハードだったため、当時は辞めようとしていた)に所属しているため、応募が通りやすそうだったから
・マレーシアコースはサークル合宿と日程が被ってしまっているから
…こんな不純な理由からだった。
事前研修に参加した時も、なんだかメガネの男子が多くて真面目そうな人ばかりで引いていたし(実際みんな超アグレッシブ)、たまたま辞めようとしていたゼミの先輩がいてやりづらそうだし(今は2人でも遊ぶくらいに仲が良い)、唯一の同い年の男はガヤガヤした雰囲気で、それはそれで避けたい人種だった(今はめちゃくちゃ仲が良い)。
そんな感じの冷めた自分が、まさかたった9日間であんなに充実した時間を彼らと過ごし、自分の未来に不安を覚え、苦しみまくるとは。強い信頼関係で結ばれるとは…思いもしなかった。
実際に行って現地で見たものは、フィリピンの子どもたちを取り巻く現実や、貧困地区の劣悪な環境、そしてそこに生きる子どもたちが生き生きとした表情で夢を語る姿。そのギャップに、胸が締め付けられた。「貧困」がこの世界に存在することなんて知っていた“はず”なのに、「世界には学校に行けない子どもたちもたくさんいる」なんてこと、散々聞かされていて分かっていた“はず”なのに、所詮それは知った”ふり”でしかなかった。
(ここでの学びが自分のフットワークを軽くして、帰国後色んな所に直接足を運ぶようになった。)
毎晩行う、1日の振り返りの時間。ある日、周りのみんなの口からこぼれてきた、
「私は将来こういうことをしたくて…」
「俺の夢は…」
「学んできたアジア経済の知識とこの経験を結びつけたくて…」
…夢。このプログラムに参加する目的。自分のやってみたいこと。目標。
それを語るみんなが、かっこよかった。キラキラして見えた。
そして自分自身に対して、
「俺には何もない。」
「からっぽじゃん。」
「何がしたいんだろう?何ができるんだろう?」
そう思ってしまった。無力感に襲われたし、初めて自分の未来について、夢について考えてみたけど何も思い浮かばなくて。
焦った。
虚しかった。
「もしかしたら、夢とか熱意とか持たずにここにきてしまった自分は場違いなのかもしれない。周りからもそう思われているのかもしれない。」
そう思うこともあった。
ある晩、その不安をメンバーにも話した。
「やりたい事が明確でそれに向けて頑張ってるの、かっこいいと思う。自分には何もない。」
と。そうしたら、自分にはキラキラして見えたその人から、
「本当は他のメンバーから自分がどう見えてるのか不安で…アイデアがたくさん出てきて英語も自分よりできるくらっしーが羨ましいよ。」
という言葉が出てきた。(この辺、どっちから打ち明けたのかは正直曖昧…)
普段は明るく笑顔を見せるこういう人にも、こういう悩みがあるんだ。 自分を見て「羨ましい」となんて感じる人がいるんだ。
仲間の知らない顔を、自分自身の知らない一面を見ることができたこの晩から、周りを見る目が変わった。
「もっとみんなのことを知りたい。」
「自分のことも知りたい。」
そう思うようになった。
フィリピンでやってきたことももちろんかけがえのない経験となったのだが、この時の自分にとっては、「自分と向き合う」ということの難しさと大切さを知ったのが大きなポイントとなった。 そして帰国する際、
「次はもっと力をつけてフィリピンに戻ってこよう。」
「その時までに、国際協力の知識や経験をもっと積もう。」
そう心に決めて、冷めていた自分は熱い仲間たちとともに、日本に熱い想いを持ち帰ってきた。
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貧困問題に対して、 周りの参加メンバーに対して、 自分自身のことに対して、 たくさんのことを感じて、考えた9日間でした。
2年半前の話で、記憶が曖昧な部分もあるし勢い任せに書いてしまったので、まとまりのない文章になってしまいましたが、これが僕の“きっかけ”です。 ここでの経験と、出会った仲間たちが原動力となり、その後様々なことに“とりあえずやってみる”スタンスで挑んでいくことにします。
そして半年後の春休みに、宣言通りもう一度フィリピンに戻るわけですが…
滞在日数こそ長くはありませんが、フィリピンへの思い入れはかなり強いので、次回にしたいと思います。
かなりの長文になってしまいましたが、読んでくださった皆様ありがとうございます!!更新も遅くてすいません…ピッチ上げます…(笑)
では!
【学生生活振り返る〜大学入学までの話〜】
社会人生活を迎える前に大学生活を振り返ることにしました!
いち大学生の記録に、この場をお借りしたいと思います。
大学生活を振り返る前に、大学入学以前の話をちょこっとだけ。
生まれも育ちも東京都荒川区。平和な下町です。
もともとは父方の祖父母と暮らしていましたが、すでに他界しており、 今は両親と1つ上の姉、5つ下の妹と愛犬(2代目。実に愛くるしい!)の5人と1匹で暮らしています。
今でこそ大学の友達からは、「テキトー」、「楽天的」とよく言われますが、
中学生時代は割と頑張り屋だったんです(笑)。っていう話から。
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【中学生時代】
勉強面では、1年生の頃から塾に通い始め、3年生の頃には週6で通っていた。
そのおかげもあり、成績は学年でも上位に入っていた。 ちゃっかり学級委員も3年間務めていて、自分でもなかなかな真面目くんだったなあと今では思う。(笑)
部活はソフトテニス部に所属しており、こちらも週6…。しかも2年生の後半からは部長に任命されてしまい、かなりハードな毎日を送っていた。
勉強との両立は大変だったが、それでも区大会では常にうちの中学がトップを勝ち取り、団体戦では確か全て優勝していた。 (後々、コーチたちからは「黄金世代」とか言われてたり…)
その時の自分のモチベーションとなっていたのは、「夢」とか「目標」に向かって、といったような綺麗なものではなく、 他の人に負けたくないっていう、「意地」とか「プライド」みたいなものだったと思う。
将来の夢とかやってみたいこととかは、小さい頃から全くなかった。
「文武両道」
先生がつけたのか、いつの日か自分で自分にレッテルを貼っていたのかは分からない。
でも、目に見える「成績」を打ち出すことで自分の存在をアピールして評価してもらい、安心感を得ていたような気がする。
「どっちもできるのが自分。」
そのレッテルが剥がれてしまうのは、なんだか恐怖というか…じゃあどうやって自分の価値を測ればいいの?!って。そんな感じだった。
そうやって、部活でも勉強でもうまいこと成果を出していた自分が、唯一うまくいっていないと感じていたのが、交友関係。
週に6回の塾と部活で遊ぶ時間もほとんどなかったことに加え、おそらく少し天狗気味になっていたであろう自分のことを、 周りの友達はあまり良く思っていなかったんだと思う。
いじめに遭っていたとか、故意に仲間はずれにされていたとか、そういうのではないのだが、
気づけば輪の1歩外にいる自分がいて、 グループを作る時も一緒に組もうと声をかける相手がいないような、中途半端に浮いた存在になっていた。
(今でも、見かけたら「おぉ!久しぶりー!」ってなったものの、その後微妙な間が生まれてしまう感じ。笑)
だから、
「高校に行ったら勉強もしたくないし、部活もほどほどにしたい。」
「仲の良い友達を作って自由に遊びたい!!」
そんな気持ちで、都内の進学校である都立竹早高等学校に進学した。
【高校生時代】
宣言通り、勉強はほとんどしなくなった。
部活はバドミントン部に入部しそれなりに一生懸命練習に取り組んでいたものの、
中学から継続している選手にはなかなか追いつけず、芳しくない結果のまま引退を迎える。
校則はないに等しい状況で(部活内には規則はあった)、
金髪も赤髪もいるし、ピアスもいるし、派手な私服でくる人もいるし、上履きをカラフルに塗りたくった人もいるような、自由で楽しい学校だった。
でもみんな高校受験を乗り切った人たちで根は真面目なところもあって、頭のいい人が多かった。
高校では友達がたくさんできた。
文化祭や体育祭もみんなで創っていくのが楽しくて、イベントごとはいつも盛り上がった。
高校友達の中には、今でも月に1回は会うような関係の仲間もいる。
高校生活はたくさん笑ったし、楽しかった!!
楽しかった、んだけど…
今思い返すと、部活に勉強に一生懸命だった中学生時代の記憶はたくさん蘇るのに、
何もかも中途半端で何も考えずに遊んでばかりいた高校生時代の記憶は、あんまり思い出せない…
ただ毎日を何となく、それなりに楽しんで生きてきた。
だから、突然迫ってきた大学受験期は、どうして良いやらわからなかった。
中学までは個人塾に頼りっきりで、自分で勉強する力が皆無だったし、それ以前に行きたい大学とか学びたいこととか、なりたいものとか、考えたことがなかった。
周りもそういう人ばかりで、でもみんな根は真面目だしプライドも高い人が多くて、
「学歴は残るものだし。」
「とりあえずMARCHは受からなきゃ」
って言ってガリガリ勉強してた。
中学までの自分なら、同じように勉強してたかもしれない。けどこの時の自分は勉強する目的を見失っていた。
意地とかプライドとか、捨て去ってしまっていたから、
「海外行ってみたいから。」
と適当に選んだ国際系の学科の入試に向けても頑張れなかった。当時通っていた予備校もサボりまくっていた。
そしてろくに勉強しないまま、受験を迎えた。
結果は、、
全部落ちた。
…東洋大学だけ補欠。
さすがに焦った。姉が浪人を経験しており、その時期の苦労を見ていたため、自分は浪人したくないしできないと思った。
2年連続子どもが浪人ともなると、家計的にもきつそうだった。
だったら専門学校に行こうかな。
ということで、デザイン系の専門学校に体験入学に行った。 デザインや絵を描くことは比較的好きだったが、
何か違う…
これで食べていく覚悟はなかったし、不安だった。
どうしよう…
そうやって血迷っている間に、東洋大学から電話が!!
ラッキーなことに、東洋大学経済学部国際経済学科に補欠合格で入学できることになった。
助かった…!
行き場を完全に失っていた自分に、救いの手が差し伸べられた。
どこかもっと志望度の高い大学に受かった人おめでとう!蹴ってくれてありがとう←
どこかの誰かも嬉しい。自分も嬉しい。
一石二鳥?な結果となって、大学受験の幕は降ろされた。
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「これだけ勉強サボってたけど、何とかなってしまったなぁ。」
「無難な経済学部に入れたし、どこかしら就職先も見つかるだろう。よかった〜。」
そんな風に思いながら大学へと進学しました。軽いですね。
なんやかんやで大学受験を乗り切ってしまった僕は、大学に入学して1年半後に参加した海外研修でエンジンがかかるまで、 やる気のないテキトーな学生を続けてしまいます…
…続く。
初回からかなりボリューミーなものとなってしまいました!
最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました。
次回は早速、自分の人生を考え直すきっかけをくれた海外研修について書いていきたいと思います。
ではでは!